Thu Dec 8 22:02:13 JST 2016

日記

食べ物について

いろんな事情が積み重なって、ココ最近は専ら、夕食は松屋かカップ焼きそばで済ましている. カップラーメンでないのは、汁を飲み干すのが体に悪い気がするから. 汁を飲み干すのは、台所に捨てるとなると、食べ残しが排水口に残るのが嫌だから.

尤も、私の夕食のバリエーションなんて大して無くて、 外で牛丼を食べるかインスタント食品を食べるか、豆腐を食べるか食パンを食べるか、くらいしかない. それをローテーションして、今はカップ焼きそばであることが多いというだけである.

なんだかんだ私も俗的な人間であるな、と自分で思うことには、 美味しいものを食べれば嬉しく感じ、またそれを食べたくなる. カップ焼きそばの場合、美味しいというのは、味が濃くて、辛かったり、チーズの味が強かったりする場合を言うのだが. しかし、世の中のインスタント食品の多くは一年もしないで消える. 一年なんて言い過ぎで、3ヶ月持つかどうかが良いところかもしれない. チキンラーメンといった定番でもなければ、ほとんどの商品は今だけなのだ. 私は一度、満足する商品を見つけたらそれだけをずっと食べていられる自信があるのに.

人間について

人が私を見る場合

皆、案外、人を見る目がないのだな、と思う. それを実感するのは (言わずもがな) 他人が私を評価する場合のみにおいてである. こんなことを思ってしまうような人間は、人は人を見抜く能力が十分にあることを期待している. それに抵抗するようにいつも振舞っている. だから人が私を見る目がないのは私が原因である.

私が人を見る場合

逆に私が人を見る場合は人は何も振る舞っていないと思っている. そんなことを考えてはキリがないからである. 更に言えば、人間の中身なんてものは存在しなくて、挙動こそが全てだからである. 如何に心が真っ黒であろうが (本人はそう思っていてそう公称している)、良い行いばかりするとき、 仮に「そいつは本当に善人なのだ」と解釈して何の不都合があろうか.

嫌いな人間について

自分と違う文化で育った人間と仲良くなることができない. 従って嫌いである. 不思議と仲良くなることに成功した人間だけが好きな人間である.