Sat Nov 30 2019

日記

最近いつも眠たいので、自分の発言が夢の中での発言だったのか、それがあまりに他愛ないので誰かにした世間話だったのか、上手く思い出せない。

テーブルの斜め向かいの人が、アナログカメラがどういうと言っていて、デジタルカメラに対しての「アナログカメラ」のことだろうと推測し、 私が「フィルムカメラのことですか?」と言うと、思い出したように「あ、それそれ」と笑っていた。

夢の確率が7割、現実の確率が3割。

目覚まし時計の代わりに洗濯機を使うという話をした。 洗濯機が回る音だけでなく、干すという行為を半強制するのが目覚ましの役割を持たせるとかどういう話した。

こちらは現実の確率が8割強ある。 書いてて夢じゃなかった気がしてきた。

日記

最近の趣味は Awk と sed。 どちらもその気になれば結局シェルスクリプトを呼び出せるというのが強い。 シェルスクリプトが呼び出せれば例えばRubyインタプリタを呼ぶことで Ruby も書けるということだ。 言語というのは案外他の言語を内に含めることが出来るので、表現能力はみな等しい。

形式言語と比較して自然言語のパースの難しさや意味解釈の曖昧さを思うにつけて、自然言語は残念に思う。 例えば日本語の中に名詞レベルでならば英語を含めることが出来る。 「昨日、うちで飼ってる dog がさ〜」なんて言っても、とりあえず会話が出来る。 形容詞まで行くと違和感が大きい。 「うちで飼ってる dog があまりに cute でさ〜」なんて言うとふざけてると思う。 それでも通じるのは単語レベルだからだ。 文単位で、英語を混ぜるのはさすがに無理がある(英文を引用している場合は意味が異なるので今は考えてない)。 仮に混ぜても問題ないと思っているのなら、「日本語を理解できる」ことは「英語を理解できる」ことを含んでなければいけない。 そのようなことを要請するのは無茶だろう。

何が言いたいのかと言えば、簡単に他の言語を混ぜることの出来るプログラミング言語はなんと表現能力豊かなのだろう、という話である。