序章

隣、よろしいでしょうか?

じいさんは静かに会釈して私を促した. 私は腰をおろした. 我々は五分ほど街を見下ろした. 走っている車と言えば運送トラックばかりなことに改めて気がついた. 老人が車道の脇を歩いていた. 日本で一番の人口を誇っていたこの街もさして過密だとは言えないくらいに人が減り、 車の渋滞はほとんど無くなり、皮肉にも随分住みやすい街になった. しかしそれ以上に居心地の悪さを皆等しく感じているようだ. この街に人口が集まったのは結局のところ、寂しさ故なのだろう.

そろそろ行こうかと思ったが、隣のじいさんはよっぽど未練があるのか、動こうとしない. 私が来るずっと前から居たはずだ. ここではあまり話しかけないルールになっている. そっと身を出して前かがみになった.

あそこに、ベンツが止まってるのが見えますか?

今日はじめて、自分以外の人間の声を聞いたなと思った. 一瞬あっけにとられ、私は席に座り直した. 目線を追った先に、確かに車が見えた. 車種には詳しくないが、そう言われたら、あれがベンツなのかもしれない. 個人用の自動車というのはただでさえ贅沢なのに、ベンツといえば高級外車だ.

我々も、生きて真面目に働いてれば、あんなものが買えたかもしれないんですよ

そんなものを買ったところでどうするんだろうと思った. 私は最後につまらない話を聞いてしまったと後悔して、飛び降りた.